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★★ お墓の話 ★★ 2003年12月11日

 まず、話の始めにお断りしておきますが、私は完全に無宗教です。昔からあり、習慣化して日常生活に溶け込んでいる仏教やキリスト教などの行事は容認するものの、新興宗教に至っては大嫌いです。従って、「お墓の話」については、ある宗教宗派にとっては大変失礼なあるいは罰当たりなことを言うかも知れませんが、無宗教者のかってな考え方だとご容赦いただきたいと思います。

 先日、義父の満中陰法要(四十九日法要)と納骨のため、大阪の妻の実家へ行きました。途中京都に寄って先に亡くなった義母が分骨されている京都のM墓地に墓参りしてきました。M墓地は所謂ロッカー式の墓で、私にとっては初体験の墓でした。いかに土地が足りないからといって、ロッカーのような墓では先祖を敬ったりする気持ちも冷めてしまいそうです。
 法要の合間の話で、「自分達が死んだら墓はどうする」という話題が出ました。お互いそろそろ「死」も考えなければならない年齢になっているのです。「自分で墓を買う」「先祖代々の墓に入れてもらう」とか色々話が出ますが、私自身は、墓なんか要らない。遺骨は海に撒いてもらっていいし、もし、許されるなら、「お骨拾い」なんかしなくて火葬場の廃棄物として処理してもらってよい。という考え方です。なぜなら、人もその他動物も、死んでしまえば、何を感じるわけでもなく、完全な「無」になってしまうのですから、「死んでから何かしてくれる手間隙があれば生きている内にやってくれ!」と言いたいところです。世の中には「生前葬」をする人がいますが、香典も生きている間にもらって、自分の葬式にどれだけの人が集まってくれるのか確かめておきたい気持ちです。本当に死んでしまえば、誰も来てくれなくても構わないではないですか。

 死後の世界を信じる方もいらっしゃいますが、科学的に考えれば、死後は物理的には人的なものは何も残らない。火葬すれば、炭酸ガスと水蒸気と遺灰だけになってしまい、燐酸カルシウム主体の灰分がお骨として残されているに過ぎないのです。魂を信じる方がいらっしゃいますが、これは、亡くなった本人の霊ではなく、遺族や故人を知る人々の心の中に残る精神的要素なのです。だから、故人を知る人も亡くなれば、その人の魂も総てが無くなってしまいます。
 この先、団塊の世代が老齢化し、いずれは死に至ることになるのですが、彼らが、みんな立派な墓を造ろうとすると、どこも彼処も墓地だらけになるかも知れません。先述の義父の納骨に行った墓地は広大な公園墓地の一角で、畳四畳程度のもので、この先、代々の墓にしていく由。これも、遺骨がいっぱいになったらどうするのだろうと、余計な心配も頭をかすめたりしました。この公園墓地の一角に、古い墓石の上の部分だけが隙間のない状態で集められているのを見ました。恐らく墓守する人も居なくなった墓なのでしょう。捨てるわけにもいかないので、とりあえず集めて残してあるという感じですが、「粗末に扱えない厄介物」がこれからもどんどん溜まっていくのではないでしょうか。

 最近、自然葬なるものが少しづつ増えているそうです。自然葬とは、遺灰を粉にして、海岸から20Km以上離れた海洋に散骨するとか、植樹葬といって墓石の代わりに樹木を植え、その根元に遺灰を散骨するとか、ヘリコプターで空から撒く、といったことです。法的にも、法務省は「節度をもって葬送の一つとして行われる限りは問題はない」との見解を示しているので問題無さそうです。

 私の場合、植樹葬もいいかなと思ったりします。多少とも、緑を増やして後世の環境保全に役立てば良いのではないかな、と。陰気な墓石よりはずーとよさそうだし、墓参りも墓掃除もいらないから子や孫に手間をかけなくてよいではないでしょうか。万一、親を偲びたいというような律義な子や孫が居たとすれば、大きく茂った樹を見てもらえばありがたいことです。死んだ人の数だけ森の樹が増えていくなんて、すばらしいことではないでしょうか。

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