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★★ 「母べえ」を観た ★★ 2008年02月09日

 我が家に比較的近い映画館で先週「アース」を観たばかりであるが、あまり間を空けずに今度は「母べえ」を観てしまった。「アース」は話題のためと金を払って観に行ったのであるが、「母べえ」はもらったチケットである。40年間も映画館に行っていなかったのに、ここで立て続けに行くのも変と言えば変、しかし、自宅の近くで、駐車場もあり、混んでおらず、15〜20分で行ける利便性がそうさせたのかも知れない。

 この映画のあらすじは、昭和15年から戦争まで思想犯として「父べえ」が逮捕、拘置、獄死する中、2人の娘を育てあげる「母べえ」を描いたものである。筆者と同年代の吉永小百合が40代と思える母べえを演じられるのも大したものである。 

 筆者の年代では、当時の生活を懐かしく感じたが、実際の当時の生活を知っているだけに、もし映画と同じような状況下ではもっともっと悲惨だったのではないかと思われた。映画では次々と助っ人が登場していたが、当時の現実では助っ人はそんなに現れるものではない。母べえが病気で倒れるシーンでも、即助っ人が登場し、医者も往診してくれ、金はあるとき払いでいいよと言ってくれたが、筆者が戦後間もない頃に見た現実は、親が結核にでもなれば、子供は食べるものもなく浮浪児になるしかなかったのだ。浮浪児にまでは至らなくても、毎月360円の給食費も払えず、給食時間にはどこかに居なくなる子もいた。運動靴が買えず、藁ぞうりで通学する子もいた。海水浴のシーンでもちょっと違和感があった。時代は戦前なのに、男が今と同じような海水パンツをはいていた。当時は殆ど6尺褌であったはず。女の子の水着ももっとダサイものだった。まあ、映画なんだからあまり悲惨になり過ぎないようにし、人情も表現したかったのであろう。 

 これを観て、筆者自身の「母べえ」はもっとすごかったのだなと今になって思い知らされた。筆者の「父べえ」は筆者が10歳の時に結核を患って療養生活に入り、12歳の時49歳で亡くなった。戦後10年頃でようやく落ち着きかけていた頃であるが、上は17歳、下は8歳の子供4人と姑の5人を女手ひとつで支えて子供4人全員を大学まで卒業させたのである。大阪女子師範学校を卒業して教師をし、終戦時は女学校の教師であり、当時としてはインテリであったのであろうが、戦後は教師は辞めて衣料品店を開いていた。ど田舎のため客が殆ど来ないので、自転車に商品を積んで行商して回っていたのである。当時の筆者はそんな大変さは察せずに我侭ばかり言っていたと今になって反省している次第である。

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